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短編小説『愛すべきボタニカ』/ 佐々木ののか 〜恋を終えた女のセックスとセルフプレジャーの話〜

2018.09.13

涙をひと粒落とすたびに呼吸が浅くなり、肺が火照って喉が干上がる心地がする。焼けただれた気道は石でも詰め込まれたみたいに窮屈で、ようやっと酸素を通しては内臓のどこかを刺すのだった。

「これからどうやって生きていこう」

彼を失った今、自分の輪郭さえままならない。 もう手元には何も残っていなかった。

彼と付き合っていた1年半の間、私なりに一生懸命やったつもりだった。

彼のことが大好きだった。優しいところ、優しい声、笑うと細くなる目、目の横にできるシワ、大きい手、細くて長い指、あげつらえばきりのないほどに好きなところがたくさんあった。だから好かれたかった。好かれることは尽くすことで、それは愛情の表明だと思っていたし、その分だけ愛されるものと思っていた。彼が喜ぶことなら何でもしてあげたくて仕事が終わってから彼の家に行ってご飯をつくって待っていたし、眠る前にはいつもマッサージをしてあげた。それでもダメだった。私の努力が、足りなかった。

セックスをするときも、同じだった。彼の気持ちいい場所を探して、見つけて尽くすことは愛情の表明だと思っていたし、その分だけ愛されるものと思っていた。彼が喜ぶことなら何でもしてあげたくて、した。それでもダメだった。私の努力が、足りなかった。

デートをするときにはどこに行きたいか、セックスをするときはどこがいいのか、彼はしばしば私に訊ねてきてくれた。そのたびに私は「あなたの行きたいところに行きたい」と言い、「あなたが触る場所は何だって気持ちいい」と答えた。無理をしているつもりはなかったし、本当にそう思っていた、と思っていた。

でも、正直なところ、わからなかったのだ。 自分がしたいことは彼のしたいことだし、そこから先は私の領域じゃないと思っていた。 そうすることが最大級の愛情表現で、“いい女”なのだと思っていた。

だけど、彼は最後に「君の気持ちがわからない」と言った。 金盥でも落ちてきたような衝撃だった。 私とて、今その瞬間「悲しい」という以外に、私の気持ちなんてわからなかった。

私の輪郭は、いよいよ部屋に溶けてしまいそうだった。どこからどこまでが自分なのか不安になり、着ていたシャツごと自分を抱きしめても、もたついた布は輪郭を余計に怪しくする。確固たる何かが欲しくて、私は服を脱ぎすてて自分の腕の肉をはっしと掴んだ。ザラッとしていた。腕に続いて、胸、太もも、足首を握る。思ったよりも硬くて、ぎゅっと握ると痛かった。自分の腕の感触や太さなんて今まで知らなかった。真暗い部屋に灯りがともったような、そんな心地がした。

自分の輪郭がはっきりしてくると、今度は彼の不在が浮き彫りになる。私の肺は再び、焼けるように熱くなった。呼吸さえ苦しく、彼の痕跡を探すも、もらったシルバーの指輪は鈍い光を放つだけで何一つ訴えてはこない。この部屋にはあるのは、彼の不在と、私の身体だけだった。

手垢のついた鏡越しにぼんやり、立ち尽くす裸の私が映っている。これが彼の見ていた景色なのかと思うと、途端に自分のことが愛おしく思えてきた。私は彼がしてくれたように、自分の身体を撫でてみることにした。頬から首、胸、脇腹に指の先端を添わせて流す。胸の先端に触れると、ひとりでに肩がすくみ、私は一瞬じくじくした罪悪感に見舞われた。こうやって一人、自分を慰めることはとてつもなく惨めったらしいような気がしたのだ。

それでも、私は指を止めなかった。続きが知りたかった。彼の見ていた私を見ることだけが、彼とつながるための唯一の手段だった。鏡の前に腰を下ろして、脇腹からさらに下、腰周りからお尻、太ももに指を這わせて、ヒビの奥に生えた花芽に触れてみる。湿った苔を掻き分けておそるおそる蕾に触れるとピリリ、電撃が走って身がよじれた。初めての感覚だった。彼とセックスしているときは彼のことで頭がいっぱいで、自分が気持ちよくなることなど考えたことがなかった。「気持ちよくなって」と彼は言ったけれど、どうすれば気持ちいいのか、気持ちよくなっていいのかもわからず、私はただただ彼に身を委ねることしかしてこなかったのだった。

花芽に触れて身体に電流が流れるたび、私は少しずつ解放されていく気がした。彼に預けっぱなしだった身体、感情が呼び水をするように私の中から湧いてくる。花芽を強く押した何度目かのとき、視界が白く包まれた。痙攣を起こす足、火照っては湿り、徐々に弛緩する身体。そのすべてが肯定された気がした。どこからともない声が聴こえてきて、鼓膜を揺らす。

もっと甘えたかった、寂しかった、一緒に行ってみたい公園があった、頭を撫でてほしかった、もっと優しく身体に触れてほしかった、手をつないで眠りにつきたかった、背中を触られるのが気持ちよくて好きだった、他の女の人と2人で出かけられるのが嫌だった、もっと好きだと言ってほしかった。

手垢のついた鏡はみるみる水没して、目から頬を伝って床にポトリ落ちる。憑き物が落ちたように身体が軽くなった。湯上りに差し出されたようなタオルのような安心感に、見て見ぬふりをしてきた声がオーバーラップする。張り詰めた糸が切れ、安心感になだれ込み、私は一人慟哭した。


あとがきによせて

多くの女の子は呪いにかかっていると思う。 献身的であらねばならないとか、気持ち良くなってはいけないとか。

それは誰がかけた呪いなのかわからないけれど、 日々生活をしているだけで知らず知らずのうちに呪いを拾って、 知らず知らずのうちに自分自身を縛ってしまうこともあるのかもしれない。 かつてはわたしも、わたしの周りのお友達の多くもそうだった。

ボロボロになるまで自分を殺して尽くすのに自分を殺している苦しさに気づけない。 尽くす相手が目の前から去って初めて、苦しかったことに気づき、自分のことをあまりに知らないことを知る。

お友達の1人が好きな男の人に客観的に見てひどい扱いを受けていて、どうして離れないのと聞いたら、彼がいないとどう生きていっていいかわからないし、気持ちよくなれないと言っていて、セルフプレジャーと自立は密接に関わり合っていると思った。

もちろんセックスにはセックスの代えがたい良さがあるし、セルフプレジャーをしていない人が自立していない人だ、ということじゃない。

だけれど、セルフプレジャーは自分のこと、心地よいこと、やりたいことを知ることで、それは体調管理とて同じこと。なのに「女の子のセルフプレジャー=恥ずかしい」って思っている人がいるとしたら、まるで女の子に自立するなって言っているみたいだなって思う。依存度の強い女の子はメンヘラって揶揄されるのにね。

呪いにかかった女の子は自分で自分を抑圧してしまうから、だからいつまでたっても幸せになれないと責めるような人もいるけれど、それは誰かやあるいは社会のせいなのだから女の子も被害者で、これ以上責めてどうするの。

だけど、確かにね、世の中の多くの女の子はもっと自分のことを知って、自分の欲求を大切にしてあげてもいいんじゃないかな。それができないというのなら、自分自身が大好きな人への”プレゼント”なんだと思えばいい。

あなたがいつもご機嫌でいきいきしていないと、相手もつまらないからね。性的な意味じゃなくても、”セルフプレジャー”ってそういうことでしょ?


(文:佐々木ののか、撮影:なかむらしんたろう

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