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「家族」を死語にしたい

2019.01.18

この正月は帰省していた。

年末年始に実家で過ごすのは3年ぶりのことだった。

忙しいからとか正月の帰省は高くつくからというのは全力で万難を排せばクリアできる理由で、正月の実家にいると東京に帰る気が削がれるというのが長らく帰省していない理由だった。一度足を取られると抜けられず、かといって身動きさえとらなければ居心地の良い沼のような空気が正月の実家にはある。

そんな私が今年帰省したのは、父が「俺はあと2年で死ぬ予感がする」と言い出したからだった。父は今58歳で、2年後は還暦。人生100年時代なのに60歳で死ぬわけないだろうと思いながら帰省したのだが、疲れからか体調が思わしくないようで心なしか小さくなっているように感じた。母も母でたまたま熱風邪の病み上がりだったこともあって、ほんの少しやつれていた。妹ふたりは今年帰省をしなかったので、11歳年下で高2の弟だけがいた。若干のあどけなさを残しつつも、また背が伸びて身体もガッシリとして、もうすっかり大人だった。

紅白を観ながら「この人、年とったねぇ」などと話し、それと同じ調子で弟が幼かった頃の思い出話をしていると「あぁ私たちは家族なのだ」と実感できる。会うたびに繰り返し話されてきた家族の思い出話。懐かしさに目を細めるも、それを話しているのは齢28歳になる私と身体が衰えた両親と成長した弟。前の帰省からまた家具の配置を変えた実家と家族は、何だか他人のように感じた。

他人と言っても、大事な存在には変わりない。しかし、小さいころに抱いていた「家族」ではなかった。ただ、とても大事な、馴染みの人たちの集まりのように思えたのだった。

しかし、どうして家族ではなく他人のように思ってしまったことについて、私は“言い訳”をしたがるのだろう。家族とて自分ではない別の一個人なのだから他人ではないか。家族を他人と呼ぶことにどうしてこんなにも抵抗があるのだろう。

血縁があるからだろうか。 では、血縁がない家族については? 一緒に過ごした時間が長いからだろうか。 では一緒に過ごした時間が長い友達は? 「家族」と聞くとどんなイメージ? 明るいでしょうか、暗いでしょうか、幸福ですか、不幸でしょうか? そもそも、そんなに、二者択一で、答えられるものなのでしょうか。

***

さまざまな家族に出会ってきた。

結婚せずに子どもを出産して育てていくことを予め決めた女性、精子バンクを利用して妊娠・出産した女性、友達と家族になった女性、たくさんの大人たちが共同で子どもを育てるコミュニティ、契約結婚した夫婦、お互いに恋人をつくった夫婦、などなど。

家族の取材をするたびに、すべての家庭が異なるという当たり前の事実に毎度驚き、自分の中の固定観念に気づかされる。もはや「家族とは何か」という問いさえ愚問のように思えるほどに「家族」はバラエティーに富んでいる。

それなのに、私たちの中にはそれぞれに家族像がある。 私たちそれぞれの中にある「家族」とは何者なのだろうか。 それはゆるぎない実像なのだろうか。

そうではないと私は思う。

正解がない問いに対してゆるぎないものなどない。 家族とは見る人によってかたちを変え、一生揺らぎ続ける虚像でしかない。

それなのに私たちは「家族」のイメージや理想に引っ張られて苦しんだり、“本当の家族”を渇望したりしてしまうことがある。それはきっと、長い時間をかけて醸成されてきた「家族」という言葉へのイメージのせいだ。徐々に染み出す樹液が膠着してしまうように、コーティングされたイメージは固く、私たちごと身動きをとれなくさせる。

だから、私は「家族」を死語にしたい。 家族を解体した状態で、フラットにものごとを見つめたい。 家族制度がダメだと言っているわけではない。ただ、わけのわからぬ虚像に振り回されて誰と(あるいはひとりで)どんな風に生きていくのが良いのかの判断を見誤るようなことはしたくない。

私は、「家族」を死語にしたい。 油断すると私の足元に絡みつく、私自身でつくりあげた「家族」を壊すために、家族のかたちを探し続ける。

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